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井上陽水と全共闘
就職、絶望期―「若者はかわいそう」論の失敗(扶桑社新書99 海老原嗣生 2011/9/1)¥798
「若者はかわいそう」論のウソ(海老原嗣生 扶桑社新書 2010/6/1)¥798
1 絶望の国の幸福な若者たち(古市憲寿 2011/9/6) ¥1,890
2 若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か(赤木智弘 2007/10/25)¥1,575
おまえが若者を語るな!(後藤和智 角川oneテーマ21 C154 2008/9/10)¥740
「若者論」を疑え!(後藤和智 宝島社新書265 2008/4/9)¥756

若者(青年)であっても、幸せを感じる若者と感じない若者が居る。裕福な若者と貧乏な若者が居る。今の社会でどちらが多いのかという考察に興味はなく、今あるいは今後のトレンドはどうかという考察にも食指が動かない。数の問題ではないと思っているからだ。いつの時代においても、格差と貧富の問題は社会的な問題だ(社会学的な問題でもある)。この種の本にもとめることは、さあ、何だろうか、読み物としてどちらを面白く感じるかとかなのかなあ。自分の子供(次世代)には、読む機会があれば(たぶん無いだろうけど)、両方読んで自分で考えろ、と言うだろう。僕が今そうしてるから。

1で古市憲寿は幸せだと説くし、2で赤木智弘は不幸だと説く。二人とも執筆時点では20代後半の若者だ。そりゃ、「不幸な赤木が自らの不幸をなげき、幸せ(リア充)な古市が自分の幸せを裏打ちしてるだけだろ」と1行で寸評するの簡単だが、そこはちょっと書いてみたい。

赤木智弘(あかぎともひろ 1975年-)
古市憲寿(ふるいちのりとし 1985年-)

読みながら、ふと思い出したのが、井上陽水(いのうえようすい 1948年-)「傘がない」(1972年)の歌詞だ。彼の天才的なひらめによる言葉が散りばめられたこの名曲、その言葉づかいに最初に深入りした時、僕は、

女の尻ばかり追いかけてないで社会に目を向けろや

と嘆いたものだった。そう、僕は政治にちょっと興味を持ってる視野の狭い子供だった。

真相として無意味、つまり解釈しようと思うだけ無駄なフレーズをも時として連発する井上の歌の数々ではあるが、「傘がない」は、まだ、意味が取り易くて分かった気分にさせる作品である。この詩の内容で

「雨の日に傘が無くても彼女に会いにいけんだろ!行けないのは別の理由なんだろ?」

と突っ込みたい、そのより深い部分での込み入った解釈論議はここでは措いておく(これはこれで面白い話が展開てきると思う)。ここでは、「社会なんかより彼女なんだ」という誰にでも分かる分かりやすい解釈で「傘がない」を位置づける。

井上は歌う、

“自殺だ、国の将来だ、と深刻にしゃべっているやつがいるが、僕にとっては君に会いに行くことが今の問題なのだ”

と。つまり、社会の大きな幸福(物語)より、自分の周りの小さな幸せ(物語)なのだ。これが、40年前の1972年。大学紛争で若者が荒れて(荒れた若者は一部だという見解も多い)、マスコミが大々的に報道し続けた数年後だ。その全共闘運動の未熟であるがゆえの失敗という総括が流布した数年後、井上陽水は「傘がない」を歌って、見事に時代を切り取って見せた。社会より彼女なんだ、と。その後井上は、「俺は社会や組織に全面的にはコミットしてるわけじゃないぜ」を体現する生活をしてみせる(犯罪で逮捕されたりもする)。

そして40年後、僕は、若者と社会の係わり合いを論評する1と2を読む。井上的な時代の切り取り方は、40年経っても1に見られる。いっぽう、全共闘的に戦っているのが2である。つまり、切り口は、40年前と変わってはいない。賛成したくもなく受け入れたくもないとき、

こなしていく(1)のか、
それとも反抗していく(2)のか、

まあ、態度の問題、生き方の問題でもある。そんな局面は、いつの時代だって訪れ、襲ってくる。昔も今も変わらない人生の一風景。

結局、「不幸な赤木が自らの不幸をなげき、幸せ(リア充)な古市が自分の幸せを裏打ちしてるだけだろ」ということで分かってしまっていいのだろう。そう、分かってしまっていいんです。

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ところで、1の記述方法というのは、本の寸評をたくさんつないでゆく手法である。これは、彼の指導教官の本の書き方に良く似ている。先達が書いた本を沢山読んで理解し、その内容を要約してまとめるという手法は、文系学問の基礎的な論評的手法であって重要なのであり、活字ばかりに頼って机上の空論を…、との批判が当たる当たらないはまた別問題である。まったく、文献や資料をあげずに、だらだらの頭の中を垂れ流すがまま、そして、感情や感想を書き流してるだけの評論よりは、読んでいて誠実にまじめに感じるしだいである。

1における対象となった各評論の寸評も切れ味するどいものがあり、分かった気分にさせてくれる。ああ、あの本はそんなことが書いてあったんだ、という気分にさせてくれる。これは、切り方、さばき方というのは一種の才能である。つまみ食いしてるだけじゃん、という不満があるにしても、著者の目的は、特定の批評を深く論評して評価したいのではなく、先達の評論を多く順番に見ていくことなのだから、つまみ食いのほうが適している。できあがった料理の味見はつまみ食いでだいたい分かるじゃないですか、それと同じです。そのほうが、沢山の本をスピーディーに参照できて、バラエイティーも楽しめて、読者のためになる、ということなのでしょう。

さて、そうやって、先達本の寸評を繋いでいって、著者オリジナルな見解をところどころで述べることとなる。1で、気に留めた見解としては以下のとおりである。

(つづく)

| tomokazu2006 | 21:45 | - | - |
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