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成功体験の本
ナマケモノという動物がいる。見てると動作がのろくて枝にぶら下がったまま寝てばっかりで確かになまけものである。この動物は、なまけものだからと言って迫害されたり殺されたりはしない。危害を加えるようには見えないからであろう。ひるがえって、人間社会だ。人間社会にもなまけものはいつの時代にも居たが、おうおうにして白眼視されてきた。いじめられたり、危害を加えられたりもした。この数十年、マイノリティーの地位向上が世界的な傾向である。人類史的な人権意識の高まりが根拠になっているように思う。もちろん、なまけものにも長い歴史と当たり前の人権があるので、なまけものの地位向上、人権的にフォーカスを当てる時代になったのかと思う。

なまけものとは生産をしない人のことである。生産とは何か?生産についての精緻な探究で有名なマルクスに拠れば、生産には生産関係が前提だそうだ。生産関係とは生産する際の人と人との関係で、生産する人、その生産物を受け取る人、その他、生産に関与する人との関係のことである。マルクスが生産関係を研究した100年以上の昔には、情報伝達技術なるものは今ほど発達してなかったので生産における情報の重要性について多くは著述されてはいないのだが、マルクスの言う生産関係は現代おいては「生産における関係と情報」に敷衍したほうがいいだろう。すなわち、生産には関係あるいは情報が不可欠のものとなる。

世界があっと驚く創作物でもいいし、戦争が無くなる世界初の仕組みでもいいのだが、なまけものが引きこもってそういう画期的な生産品を創造あるいは考案していたとする。自室でも無人島でもいいが、没交渉の世界でちまちま生産活動していたのである(大半は寝ていたのかもしれないが)。なまけものはなまけもので社会とは没交渉であるがゆえ、彼の生産情報が外に出ることが無い。周囲は、また寝てるんだろうくらいにしか思っていない。しかし、その生産情報が流出することで無が有となる。情報が伝わることによって、それまで誰一人として気付くことのなかった生産と生産関係が現実となるのである。

いや、そんなだいそれた生産物でなくてもよい。もっと貨幣価値の低い生産物でも良い。生産情報が伝わった瞬間になまけものは「少し生産できる」なまけものに成長する。なまけものというマイノリティーが日の目を見たのは、マルクスの時代に比べて甚大な情報伝達技術の発達、たとえばインターネットの世界的規模での発達に拠ること多しである。

a.「ニートの歩き方――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法」pha(技術評論社 2012/8/3 ¥1,659)

彼曰く「先週金曜に「ニートの歩き方」が無事発売されました。なんとか500万部くらい売れて一生印税ニートで暮らせないだろうか……。」(http://d.hatena.ne.jp/pha/)

ということで、大金持ちになって後は働かずして楽して生きたい、という願望をお持ちのかたなんですよね。とりあえず煩悩と我欲は持ってらっしゃる。欲を持たないなまけものというのは病気系でやっかいなんだが、人間欲さえあれば、生活欲もわいてくる、生産欲もわいてくる。

b.「独立国家のつくりかた」坂口恭平(講談社現代新書2155 2012/5/18)¥798
c.「社会を変えるには」小熊英二(講談社現代新書2168 2012/8/17)¥1,365

夏休みに何冊かの本を拾い読みした。僕はこうやって成功した、大金持ちになった、希望をかなえた、楽になった、はかどった、健康になった…、というような成功体験本が多いが、俺(自分)と君(著者)は違うし、君が成功したからと言って、同じことやって俺が成功するはずもないし、君と育ちも境遇も違う俺が同じことができるはずもないし、ということで、そういう自慢話の本を読んでもこっちは萎えるばかりなんだよね。だから、成功本は読んでも面白くなく無駄な感じがする。

aもbも自慢話系、言ってみれば成功本であるが、ちょっと違うのは到達点というか達成内容のレベルが非常に低いということだ。「そんなん俺とっくに達成しているし」ってことなんだよね。もちろん、著者は成功本としては読んで欲しくないだろう。違った生き方本として読んでほしいのだろう。その気持ちは分かる。

同時に読んでるcには、いろいろ有用なことが書いてあって考えされる。こんなことが書いてある。p.492。

文句は言うけど、実際の対話や活動はやらないという人が居る。そういう人は、そもそも社会生活に向いてない気がする、とちょこっと皮肉をかました後に(小熊らしい)、そういう人は「ほとんどの社会に」居る、と書く。リーダーやまとめ役や知恵者や働き番がいる一方で、「すね者、余計者」が居る。全員がリーダー的であるとか、すね者が根絶されるとかの集団はないようだ。どの集団でも「自然とそういう役割ができていたりするのをみると、人間はそういう役割がそろった社会しか作れないのかもしれません。そうであれば、昨日のリーダーも今日は活動していないかもしれませんし、今日のすね者も明日は熱心な活動家かもしれません。危機のときに、意外な力をみせて全体を救うが、ふだんは役立たない余計者だったりします。ある方向に向けて効率化し、無駄や異論をすべて切った組織は、環境の変化や想定外の事態にきわめて弱いことは、組織論では常識です。究極論ではありますが、世の中に「むだな人間」はいません。」と。

「危機のときに、意外な力をみせて全体を救うのが、ふだんは役立たない余計者だったり」というのは、まずありえない。意外な力をみせるのはありがちだろう。だって、普段はなまけものなんだから、彼がまれに繰り出すちょっとな力が「意外」に見えるは当然だ。ここで小熊が言いたいのはそんな瑣末な表現上のことではなく、組織や集団ひいては社会をうまく維持するには、無駄や異論を切ったり封じ込めたりせず、常に受け入れておく余裕が必要なのでありそのゆとりが危機から救ってくれる、という当然な内容であろう。リスクを減らすには、ぎりぎりじゃなくて余白を残しておけということなのだ。で、その社会つまり人間集団の余白にすね者、余計者、なまけ者が存在しているのである。

すね者、余計者、なまけ者になるのは簡単だ。現場に行って食って寝てればいい(たまに文句の一つでもくれてやれ)。さて、すね者、余計者、なまけ者がマイノリティーからメジャーになるそんな楽しい時代がやってくるのだろうか? 昨今は、インターネットのせいだかなんだか知らないが、これまで隠遁していた、すね者、余計者、なまけ者がローカルな各所で目立ってきている。他のマイノリティーと同じ様相のよう見えるのだ。

cは、沢山のことが書いてあるが、デモの有用性を説くのもその中の一つ。原発に反対するデモの有用性である。1950年代60年代にあれほど日本を席巻した政治デモが下火となって久しいが、昨今は、東京を中心に反原発デモが盛り上がっているとのこと。デモというのは体制へのレジスタンスとして典型的なものだが、以前にふれたサイレントレジスタンス、これ、「働かない」つまり「サボータジュ」ということで反体制の意思表示と僕は見ているのだがいかがだろうか。もちろん、なまけ者の本人は「そんなつもりはねーし」と思っているのだろう。しかし、社会的事象というのは当人の意思とは独立して「そう解釈できる」ものなのだ。要するに、当人は分かってないだけ、気付いてないだけ、というやつである。

小熊が「今のデモ」を語る時、従来型の組織的デモ(組織集中型)でうまくゆかなかったところを指摘しつつこうやればいい、と提案している(p.484)。要するに自由分散型のデモがいいという提案かなと理解する。自由分散型のレジスタンス、それはサイレントレジスタンスとも共鳴できるのはないかと思う
| tomokazu2006 | 22:28 | - | - |
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